今日のお昼は、サブウェイのチリチキンを食べた。ある店にハマった時同じ注文をするのがどうしようもないやめられない。この春に初めて訪れてから、一回も注文を変えていない。大好きな大久保のケバブ屋でも、人生で50回くらい、「ケバブサンド・L・ビーフ・めっちゃめっちゃ辛い」と注文しているし、店主にはそう注文する人として、覚えられている。病的なこだわりなのか。義務感があるのか。省エネ思考の極みなのかな。損失回避傾向が強いのかもな。

義務とは何か。「せねばならない」こと。当為、ゾルレン、「べき」よりも強いもの。「べき」にある余裕をなくし、切迫感を足したようなもの。べきでないすらないものからべきの部分を論い、べき→せねばならないとしてしまう。この勝手に苦しくなる加速が他の人よりも早いなと感じることがよくある。人間に課された義務は、つまり、善であると考えるが、社会の中で善として完全に共通認識となっているもの以外も善にしてしまう。相手の人のためになるかなと思って、なんなら思い込んでしまって、やりすぎてしまう。
義務への加速の速さと、人間への興味の強さが、過度の善の実践をもたらしているのかもしれない。

高校時代の教師の教えで、人間迷ったら原始時代の社会でどうであるか考えるというのがある。巨視的に眺めることは、確かにそれらしい答えを用意して、安心させてくれるという点で有用であるのだが、近代革命という人間にとってあまりに劇的な現象の前では、現代と原始時代とい現代と原始時代の差異は大きく、誤謬を犯しやすい。
私の考えとしては中世、近世、近代、近現代と丁寧に追っていくことでわかることが大事なのではないかと思う。原始時代と比較することは、原始時代から人間の脳はたいして変わっていないという言説の肯定であり、偉大なる先人たちの積み重ねを無として見る行為であり、ファストであると思うが、何か大事なものが捨象されてしまう感覚がある。

青年期は、児童期と成人期の狭間であり、近代以後人間が豊かになり、生まれた現象である。確かに学校以前は、子供はある程度の年齢になれば、労働力として扱われたのであり、これは成人として扱われていると考えて良いだろう。近代の成立によって、具体的に言えば、産業の変化によって、成人の基準が変化している。こう考えると新卒一括採用と、職種に関係なく、同じ年齢で、採用する制度には無理があるなと思う。(高卒、大卒、院卒という雑な区別はあるかもしれないが。)今の生産力の衰えた日本人を見ていると制度に無理が出てきているんじゃないかと思える。
多様化した現代においては、青年期の課題である、アイデンティティの確立が起こりにくい。マニュアル通りの成長過程を追うことが困難になっているため、成人になるのに時間がかかるのではないか。

人生、食ってやって寝るだけと談志みたいに達観できるのはいつになるか。少なくとも今より1000文字分は沈黙せねばなるまい。

はてなブログの元記事