
(書いている場所:早稲田大学中央図書館)
自己分析に一旦の終わりを告げるためブログを書く。
ディオニソス的肉うどん、アポロン的山田
まず、私の駆動モデルは、二つの性格の相剋であると考える。
まず、一人の自分は、制御的な、規範的な超自我(Super Ego)的な山田であり、小学校受験時代の厳しい教育の中で育ったこと、父権的な父親の姿によるものである。
そして、もう一人の自分は、享楽的な、逸脱主義のエス(Id)的な肉うどんであり、中高時代の過ごし方や、発達特性(=母から受け継いだ)に表れてる。
安易な二分法で申し訳ないが、この二項対立から出発してみたい。
ラカン的に
フランスの精神分析家、思想家であり、フロイトの精神分析学を言語学や構造言語学の観点から再解釈し、「フロイトへの回帰」を唱えた。自分が理解しているラカンの概念は鏡像段階、想像界・象徴界・現実界、大文字の他者、対象aといった基本的な概念のみを扱う。一応以下にまとめておくが、自分が本から読み取ったもの、自分なりの言葉で解釈したものなので、間違いがあるかもしれないことを了承してほしい。
(1)鏡像段階について
生後6-18ヶ月程度の乳幼児が、鏡に映った自分自身の像を「統一された自己(=ゲシュタルト)」として認識する段階のこと。
人間は、他の動物と違い未発達の状態で生まれるため、生後すぐは自身と身体を結びつける感覚が一致していない。にもかかわらず、鏡の中の理想化された統一的なイメージを自己と同一視する。このイメージは真の自己との間に常にズレを生じさせ、これが内受容的自我から可視的(外部的)自我への、つまり、自我(Ego)、想像界から超自我(Super Ego)、象徴界への移行となる。
(2)想像界・象徴界・現実界
ラカンの思想の核となる三つの次元。人間の精神構造と世界の捉え方を規定する道具。
ア. 想像界(L'Imaginaire / イマジネール)
鏡像段階において、「統一された身体イメージ」と自分を同一化し、自我(Ego)を形成するところから始まる。
常に理想化されたイメージに基づいているため、自己と他者の間の本質的な違いを覆い隠す錯覚の領域。
ここで理想化されたイメージ
イ. 象徴界 (Le Symbolique / シンボリック)
言語と社会的な法(=規範)の次元
記号(シニフィアン)と構造の領域。
精神分析的には、子供が「父の名」という法を受容し(去勢のシンボル)、言語という他者のシステムに参入することによって確立される。
(ア).大文字の他者(l'Autre)
象徴界は、私たちを取り巻く超越的なシステム、言語の総体、社会の法、すなわち大文字の他者である。
(イ).「人間の欲望は他者の欲望である」
ラカンの言葉だが、欲望は、単なる生理的欲求(ニーズ)ではなく、他者が何を望んでいるのか、他者からどう認められたいのかという関係性の中で生じる。
ウ. 現実界 (Le Réel / レエル)
「象徴化されないもの」の次元であり、象徴化(言語化)や想像化が不可能なもの、トラウマ、生の断片、穴、不可能性の領域です。
現実界は、想像界の錯覚や象徴界のシステムの枠組みの外にあり、常にそれらに抵抗し続ける。
常にそこにある現実界は、私たちの想像や言葉の「外側」に常に穴として存在し、不安(不安感情)を引き起こす根源である。これは、主体がいくら言語で自己を語ろうとしても決して捕らえられない。
(3)対象a
人間が想像界から象徴界に参入する際に象徴的去勢を受ける。その時に主体から切り離された欠如。
欲望の原因となる。我々が常に追い求めて、決して手に入れることができないもの。
現実界との関係では、絶対に手に入らない、満たされなさ、欠如。あるいは、言語化できなかったもの(=象徴化されないもの)として。
想像界との関係では、まなざしや声といった形で想像的に現れる。主体と小文字の他者との鏡像的な関係における幻影的な断片。
象徴界との関係では、前述の通り、言語が失敗する場所。象徴界が想像界から参入してくる時に化した父の法としての「去勢」(言語による喪失)の結果であり、象徴的秩序の限界を表している。
(4)スキーマL

・主体S:象徴的秩序への参入で「去勢」され、根源的な欠如(=母体(=世界)が全てを持っており、その母体と同一性を持つ自分は永遠に満たされるということの否定)を持ったいかなる属性も持たない「語る存在」。
・自我a:鏡像段階に、他者からいかに見られるかによって作られた想像の自己像 想像界に属する誤認を含む
・大文字の他者A:超自我が主体に取り込む象徴界によって作られる法や規範、禁止を包含する言語という無意識的な構造によって形作られる象徴的秩序そのもの。社会。
・小文字の他者a':自我aを形成するための鏡像として機能する。
上記のシェーマLのS<->A方向の象徴軸は真のパロールであり、無意識(大文字の他者A)からのメッセージであり、主体が自身の無意識(A)を構成するシニフィアン(記号、言葉)に触れ、真の自己(S)の欲望やトラウマを初めて言語化すること。これにより、主体の自己の存在と欲望に、象徴的な位置付けを与えることができる。
例えば、過去の出来事が、現在の主体の欲望から再解釈され、象徴的に再構築される。
a<->a' の想像軸は空虚なパロールの軸であり、他者からの視線によって再起的に作られている自己像に対して、S主体の関心が、自分自身の真の無意識的な欲望ではなく、自我の作り出した理想自我I(A)や小文字の他者a'との鏡像的な関係に集中していることを示す。例えば、理想自我と自我が競争したり、自我の誤認(自分はこうあるべき、こう見られているという幻想)によって満たされているなど。空転、既知、無関心。
(5)当てはめ
当てはめていく、
S 主体:「語る存在」
a 自我:具体的には、自分は論理的で賢く、物知りで、天才性を帯びているという像、小文字の他者a'によって作られた誤った自己像。
A 大文字の他者:規範(=小学校受験で行儀よく躾けられた、真面目で勉強している姿が良い、習い事多い)。社会的成功と知性
a' 小文字の他者:児童期の周りからの見られ方(=地元塾で一番、小学校の中でも歴史好き、本好き、やや無個性)、中高時代の周りからの見られ方(奇人、うるさい、衝動的、やばい、本気を出したらすごいかもしれない)これにより、自己像(自我a)がさらに固定化された、自己像を投影した中高大にかけての憧れの理数系の天才たち(小文字の他者a')とのギャップに傷つく劣等感(a自我の傷)
(6)考察
まず、自我aは「論理的で賢く、物知りで、天才性を帯びている」という理想化されたイメージである。そして、この像は小文字の他者a'によって、地元の塾で一番だっただこと、学校での評価などによって形成された。
次に、自我aの「自信」は常に小文字の他者a'の視線に依存していて、極めて不安定だったと言える。そのため、一種の防衛機制として常に自信過剰に振る舞うことを要請されていた。しかし、例えばテストの時などは、「憧れの天才たちとのギャップ」という現実を突きつけられると、激しい劣等感を抱き、自我aの自己像が傷つけられ、過度な不安に陥いることもあった。
さらに、この不安定な自我に対して、大文字の他者Aからの圧力がかかった。例えば、「東大合格」といった言葉によって、社会的成功と知性の規範が課された。さらに、それを主体に内在化し、「真面目に取り組む」「絶対に失敗しない」といった過剰な要求(超自我)を自分に課すようにもなった。
そして、もちろん「失敗しない」という象徴的規範は現実的でない。そのため、自我は防衛機制として、自己破壊的なサボタージュや享楽的な趣味への没頭(=地下アイドル)、享楽的な学習(一夜漬け)を行うようになった。
こうして、疲弊した主体は、「根源的な欠如」による不安が増幅する中、それを覆い隠すために、さらなる「天才幻想」へと向かうこととなった。
さて、この強迫的な「天才幻想」は、「本気を出して失敗するのが怖い」というサボタージュの温床となった。その結果、「まだ本気を出していない自分」という曖昧な状況を作り出すようになり、「淡々と手を動かすこと」を放棄する麻痺状態になった。
そうやって、高三での最後の享楽的な作業である運動会を終えた後に、淡々と手を動かすことのみが要求される受験期へ突入すると、自我aは崩壊の一途を辿った。
大学時代に自分が意識・無意識のうちにとった具体的な対策
まず、大学受験にボコボコにされたことで、自我aはへし折られた。そして、大学に入って雑魚ばかりだと思ったら、次第に、自分もその雑魚の一人に過ぎないことがわかった。その結果、追い打ちをかけられた自我aは崩壊した。
ひとまず、無意識的、意識的に小文字の他者a'の要素を減らして、人に見られないように、所詮人は自分のことなど見ていないと意識するよう心がけた。
次に、専門家に助けを求めた。そうして、カウンセラーと毎週話すこととなり、語る主体としての力を取り戻す試みが始まった。
さらに、心理臨床学の本をいくつか読むことで、どのようにカウンセリングされているのかその仕組みをメタ的に理解しようとした。
さらには、認知行動療法と呼ばれるメタ認知の手法を試し、特に自分の思考にa'小文字の他者が介入しやすいことつまり、他人の目を気にして、他人の期待通りに動こうとしてしまうことを自覚し、その影響を小さくしようと努めた。
また、大学も後半戦になってからは、他の人と違う趣味、変わった言動をすることを減らそうと努力し、俗っぽく振る舞う機会を多くした。その結果、振る舞いの違和感は消えないものの減りはした。ニンニク食った後の口、直接かぐかフリスク噛んだ後に嗅ぐかくらい変わった。
一方で、これは自分の中でも賛否両論あるが、自分のキャパが一杯一杯になっていると考え、物事を今は絞る時期だと判断して、新規活動をほぼ0にし、逸脱、発散を避け、今やっていることを継続するよう心がけた。その結果、例えば、運動などは2年近く続けており、ジムに行ったり、走ったり、プールに行ったり何かしらをやって、途切れていない。ただし、悲しい話ではあるが、この運動の際もなるべく一人で行っていた。なぜなら、a'小文字の他者の影響を排して、なるべく健全なa自我を再構築できるようにするという観点を徹底することにしていたからだ。そして、もちろん、一人で週3市民プールで泳いでいる21歳は、常識的な視点では狂気ということがわかっている(やっとわかるようになった)。
以上が、大学時代の対策である。
精神医学的に
この章は、メモとして書くにとどめる。読み飛ばして良い。
高三の頃から医者にかかり薬をもらうようになり、発達特性を抑える薬をもらった。そして、その効果としては、観念奔逸や衝動性を抑え、また、副作用としては性機能の減退、眠気などがある薬を飲んだ。
このことについて、私は、エスを抑え込んでいるのだと解釈している。
なぜこのブログを書いたか
まず、前述の取り組みや発達的成長もあり、もうまもなく22歳になる今、幼少期から青年期にかけての歪みは大幅に矯正されつつあること。(歯科矯正が流行るこの頃、自分は心理矯正を専門家の手をかりつつ自分で行なった。心理矯正指導医とかになれるんじゃないか。)
そして、この数年間の主題であった「適切なa自我の再構築、真なるパロールの積み重ね」が達成されつつあり、他者との関わりといった新たな段階へと足を踏み入れる機会が来たと思ったこと。
さらに、もうそろこうやって過去を分析するタームは終わりにしなければという焦り。
こうしたことから、自分の実践を自分なりにまとめて一区切りにしようと思い、キーボードへと一心不乱に思いの丈を叩きつけた次第である。
現在やっていることへの応用
まず、自分はなんでも抽象論に上げてしまう癖があり、何を学んでも実学的な、パンをもらえる学問から遠ざかりがちだ。なので、まずは飯(=職)を得ようと思って勉強する学問を決めた。戦をやるからには兵站をまず考えねば。
次に、自分の興味を思いっきり抽象的にまとめると、「構造・秩序の衝突と調和」であると言える。
例としては、自分の卒論のテーマの、ラテン語と満洲語の比較を通じて、近代国際法秩序と中華世界秩序との衝突と調和が言語構造の分析からわかるんじゃないのかという仮説の検証をしている。
そこで、飯になる学問で、自分が興味を持てるものがないか探していて見つけたのが、法の世界だった。
法は秩序を作るものであり、特徴的な言語の構造を持って運用されている実学であり、当事者間の均衡を図り紛争解決することを主たる目的とし、飯の種にもなる。まさに、自分の要請にかなっていた。
高校生の時はなんとなく法なんてとか思っていて嫌厭していたにもかかわらず、わからないものだ。
そんなこんなのところで法の勉強をしている。
さて、勉強をしていると、過去の負の遺産である、「本気を出さない曖昧状態を作ってしまう」であったり、「天才的な自己像」との競争であったりが発生することがある。
そして、その時、理論的には何が原因かというのはわかっているが、具体のレイヤーに降りてきたときの対処法、つまり、今日サボらず十時間勉強する方法というのは知らない。
その上、それは急に降ってはこない。これに関して、試行錯誤の中やるしかない、昔のツケだしょうがないと、身に沁みて感じている。辛い。
また、この勉強はある意味では、自分の人生の反復であり、戻ってこない過去を取り戻す戦いであり、同じ規範を課された自分が、メタモルフォーゼして違う結果を出すのだという覚悟の物語だ。さらに、禅僧のように淡々と毎日、祈りと共に作業する行である
何より、自分は今休学期間にあり、人生で最も自由である。その環境下、人生で最も拘束されることを自らに課すというのはなかなかできることではなく、非常に逆説的で、好ましい状況である。なんとか成し遂げたい。
将来的な目標
まず、今回の勉強は、飯を食えるように、それも回る中華を食いたいといった満腹のために、アポロン的山田の規律の中でやっている。これが終わった時、力の均衡が取れていないので、ディオニソス的肉うどんは瀕死だと思う。
そこで、ディオニソス的肉うどんの力の戯れを取り戻すため、みんな(=主体S)が大好きな旅行に行きたい。
そして、旅行先でたくさん写真を撮ってブログも書く。
さらに、それを自作ホームページに上げたい。
なぜなら、大学時代の一番鬱屈とした時代に、知らない人の自作ホームページで気軽に天才たちの脳内にアクセスした気分になったのが忘れられないから。ただ、あの頃は間違ったa自我を持っていたので、それが劣等感へと転化してしまった。けれども、淡々と手を動かせるようになってきた自分ならば、そして賢いAIもいれば絶対満足いくものが作れるようになっているだろう。
次に、大学に入ってすっかり自信を無くしてしまったので、それを取り戻したい。そのために、新規の人と真のパロールができるようになりたい。というのも、初対面の時にどうしても空虚なパロールを繰り返してしまう。そこで、それを少しずつ改善できたらと思う。
あとは、専門を作ってその分野のことだけをやりたい。なぜなら、自信を作る手段は知であれば良いなと思うから。願わくば中国、それも広東か満洲が絡めば嬉しい。
さて、自分の興味は構造が衝突することにある。おそらく、小さい頃プラレールで事故を引き起こしすぎたせいだろう。
構造の衝突というのは、片方が大きすぎても、小さすぎても、どちらかが手を抜いてもダメ。ちょっとずつ妥協しあって調和することは調和にはならない。がっぷり四つで組み合って、それでも倒れないとお互いが信頼して、その上でいろんな汁飛び散らかした後、存在の全体を肯定し調和するのだと思っている。
故に、何か人生の中で構造が衝突する現場に立ち会いその中で破壊的想像的相互的エロティシズム的な創造の立ち上がりが見たい。例えば育児とか。
以上